田中健一さん(仮名)は、都内の大手メーカーで経理部に勤めている。勤続十二年。毎朝八時半に出社し、伝票を処理し、決算資料をまとめ、夕方六時過ぎに退社する。絵に描いたような会社員の日常だ。
しかし、帰宅してからの田中さんは別人になる。カメラバッグを肩にかけ、夜の街に繰り出す。東京の路地裏、雨に濡れた看板、終電間際のホーム——。田中さんは写真家「Ken Tanaka」として、都市のスナップを撮り続けている。SNSのフォロワーは三万人を超え、小さなギャラリーでの個展も開いた。
名刺を二枚持つということ
複業を始めた当初、田中さんは名刺を二枚持ち歩いていた。一枚は会社から支給された、白地に黒文字のシンプルな名刺。もう一枚は、自分でデザインした写真家としての名刺だ。黒い紙に白い文字、裏面には代表作のモノクロ写真がプリントされている。
「最初はそれで良かったんです」と田中さんは語る。「会社の人には会社の名刺、写真関係の人には写真家の名刺。使い分ければいいだけだと思っていました。」
しかし、問題はすぐに起きた。異業種交流会やカジュアルな集まりで、どちらの名刺を出すべきか迷うのだ。会社員としての自分を見せるべきか、写真家としての自分を見せるべきか。二枚の名刺を前に、田中さんはいつも一瞬ためらった。
「どちらの名刺を出すかは、どちらの自分を見せるかを選ぶことでした。でも本当は、どちらも自分なんです。」
一枚に収める決断
転機は、ある写真展でのことだった。来場者と名刺交換をしたとき、相手がふと言った。「写真家なのに、お勤めもされてるんですか? すごいですね。」田中さんは、うっかり二枚とも渡してしまったのだ。しかし、相手の反応は意外にも好意的だった。
「経理の仕事をしている写真家」——その組み合わせを、面白がってくれる人がいた。数字を扱う仕事と、感性で切り取る写真。一見矛盾するようだが、それこそが田中さんという人間の厚みなのだと気づいた。
それから田中さんは、名刺を一枚にまとめることを決めた。ただし、単純に情報を詰め込むのではない。「表と裏」を活かしたのだ。
表面は会社員としての顔。白い和紙に、会社名、部署、名前、連絡先。品のある明朝体で、ビジネスの場で恥ずかしくない体裁を整えた。しかし名刺を裏返すと、世界が一変する。漆黒の背景に、田中さんの代表作——雨の新宿を撮ったモノクロ写真が浮かび上がる。その下に「Ken Tanaka | Photographer」の文字と、ポートフォリオサイトのURLが添えられている。
裏返す、という仕掛け
「名刺を渡すとき、わざと表だけを見せるんです」と田中さんは笑う。「相手が裏返したとき、『えっ?』という顔をする。その瞬間が好きなんです。」
名刺を裏返す——それは小さな行為だが、そこに「発見」がある。表の堅実な会社員という印象が、裏返した瞬間に覆される。その驚きが会話のきっかけになり、田中さんという人間を深く知ってもらえる。
実際、この名刺に変えてから、人との関係が広がったという。会社の取引先から写真の仕事が入ったこともある。写真関係の知人がビジネスの相談を持ちかけてくることもある。二つの世界が、一枚の名刺によって自然につながった。
複業時代の名刺
田中さんのように、複数の肩書きを持つ人は年々増えている。エンジニアでありイラストレーター、弁護士でありヨガ講師、教師でありバンドマン。一人の人間の中にある多面性を、どう一枚の紙に収めるか。それは現代の名刺が向き合う新しい問いだ。
名刺には「表」と「裏」がある。物理的に。そして人生にも、表と裏がある。見せている自分と、隠している自分。公の顔と、私的な情熱。名刺の両面を使い分けることは、その両方を肯定することでもある。
「どちらかを選ぶ必要はないんだと、名刺が教えてくれました」と田中さんは言う。表も裏も、自分だ。一枚の名刺が、人生の二面性をそのまま映し出す。裏返すだけで、もうひとりの自分に出会える。名刺とは、そういう不思議な装置なのかもしれない。