四月の第二週、月曜日の朝。入社式から一日が経ち、まだスーツの着心地にも慣れないまま、私は総務部のカウンターに立っていた。担当の女性が事務的な口調で「はい、これ」と差し出した小さな紙箱。中には、百枚の名刺が詰まっていた。
箱を開けた瞬間のことを、今でもはっきり覚えている。白い台紙の上に、自分の名前が活字で印刷されている。会社名、部署名、電話番号、メールアドレス。そして左下に小さく、自分の名前。それは紛れもなく私の名前なのに、どこか他人のもののように見えた。
活字になった自分
学生時代、自分の名前が活字になる経験はほとんどなかった。せいぜい卒業証書くらいのものだ。それが突然、名刺という小さな紙片の上に、整然と印刷されている。しかもそこには「株式会社」という冠がつき、「営業部」という所属が記されている。
たった一枚の紙切れが、私を「社会人」にした。昨日まで学生だった自分が、今日からはこの名刺に書かれた人間として生きていく。その実感が、指先から静かに広がっていった。
名刺を一枚抜き出して、しばらく眺めた。裏面には英語表記。自分の名前がローマ字で書かれているのも、なんだか不思議だった。この小さな紙が、これから私の代わりに何百人もの手に渡っていくのだ。
手が震えた、最初の一枚
初めての名刺交換は、入社三日目の取引先訪問だった。先輩に連れられて向かった先は、都内の中堅メーカー。会議室に通されると、相手の部長が立ち上がって名刺を差し出してきた。
頭の中では、研修で習った手順を必死に思い出していた。両手で持つ。相手より低い位置で差し出す。相手の名刺は丁寧に受け取る。しかし、いざそのときになると、手が震えた。名刺入れから一枚を抜き出すだけのことが、こんなにも緊張するものだとは思わなかった。
「新人さんですか。よろしくお願いします」
相手の部長は、にこやかにそう言ってくれた。その笑顔に救われた。きっとこの人も、何十年も前に同じように手を震わせたのだろう。名刺交換という儀式は、こうして世代を超えて繰り返されてきたのだ。
名刺は自分の分身
訪問を終えた帰り道、先輩が言った。
「名刺はな、自分の分身だよ。汚れた名刺を渡すのは、汚れた自分を見せるのと同じ。折れた名刺を渡すのは、折れた心を見せるのと同じだ」
大げさだと思った。たかが紙一枚ではないか。しかし年月が経つにつれ、先輩の言葉の意味がわかるようになった。名刺は確かに分身なのだ。自分がその場にいなくても、名刺は相手のデスクの上に残り、ファイルの中に収まり、ときどき思い出してもらえる。自分の代わりに、そこにいてくれる。
あの頃の一枚
あれから十五年が経った。肩書きは何度か変わり、名刺のデザインも二度リニューアルされた。名刺交換で手が震えることは、もうない。むしろ何も考えずに差し出してしまうことの方が多い。
先日、引っ越しの荷造りをしていたら、古い名刺ケースが出てきた。中には入社当時の名刺が数枚残っていた。角が少し黄ばんだその名刺を手に取ると、あの四月の朝の空気が蘇った。総務のカウンターで箱を開けたときの高揚感。初めての名刺交換で手が震えた緊張。先輩の言葉。
肩書きは「主任」から「課長」になり、やがて「部長」に変わった。けれど、あの頃の名刺に書かれた自分と、今の自分は、本当に同じ人間だろうか。そう考えて、気づいた。肩書きは変わっても、初めて名刺を手にしたときの「ちゃんとやろう」という気持ちは、今も変わっていない。
名刺は通過儀礼だ。学生から社会人へ。その境界線に立つ新社会人の手に、百枚の名刺が渡される。そのとき感じる緊張と誇り、不安と覚悟——それこそが、社会人としての第一歩なのだと思う。
今年もまた四月が来た。どこかのオフィスで、新入社員が初めての名刺を手にしている頃だろう。どうか、その一枚を大切にしてほしい。何年か後にきっと、あの日の自分に出会い直す日が来るから。